吉見俊哉「博覧会の政治学」中公新書

博覧会の政治学―まなざしの近代 (中公新書)

博覧会の政治学―まなざしの近代 (中公新書)

【目次】
序章 博覧会という近代
第1章 水晶宮の誕生
第2章 博覧会都市の形成
第3章 文明開化と博覧会
第4章 演出される消費文化
第5章 帝国主義の祭典
第6章 変容する博覧会空間
終章 博覧会と文化の政治学

すっかり新書さんになってますね。

注意注意です。




本書の視座は博覧会に集まってきた人々の社会的経験の歴史として捉え返すことであり、

博覧会の場にどのようにして人々が動員され、彼らはそこで何を見、何を感じたのか、

また、そうした経験の構造は、博覧会の時代を通じてどのように変化していったのかを

問うことである。焦点はそれらが織り成す世界像とその受容のされ方に向けられている。

柱として3つの視点がある。

帝国主義:博覧会は「産業」のディスプレイであると同時に「帝国」のディスプレイであった。
②消費社会:博覧会は、何よりも19世紀の大衆が、近代の商品世界に最初にであった場所であった。
③大衆娯楽:「見世物」としての博覧会と言う視点

帝国主義的視点を端的に現しているのは「人間の展示」であり、それの進化系とでも言うべき

民族学的集落」の展示であった。そこではヨーロッパ人の「進歩」と「文明」の度合いは

「未開」からの距離によって確認されていた。

また、博覧会は「見世物」的色彩を深めてくると次第に生産の場よりも、消費の場に

対してモデル的な役割を果たしていくようになる。そこでは、メディアの影響力も高まってくる*1

大阪万博では博覧会空間は大きく変容した。そこには、目指すべき姿についての明確な

ビジョンのない、「お祭り」空間となった。そこでは文化、芸術、演劇などが動員されていった。

そして、メディアも動員され集客を目的とした宣伝が多面的に展開されていた。

著者は大阪万博で問われるべきは、それをあたかも中立的な「お祭り」であるかのように感受していった

大衆の日常生活そのものであり、そのような日常意識の形成に深く関わったマス・メディアの持続的で

潜在的効果である。博覧会は、その非日常的な見せ掛けによって「政治」から人々の目をそらさせて

しまうがゆえに「政治的」であるだけでなく、その動員や展示システム自体に、ある種の<政治>を

内包している。われわれが本書で問うていかなければならないのは日常意識のなかの<政治>であるとする。

最後に著者は本書の目的として博覧会という出来事の場が孕んできたある微視的な権力の作用、M・フーコー*2
*3
の言葉を借りるならば権力の技術論を明らかにすることにあるとする。

*1:大正期以降の博覧会の変容は一方では、博覧会の中に新たな家庭生活のイメージと娯楽の場を求めていく都市中間層の増大という観客側の変化と、他方では、博覧会を消費のスペクタクルとして演出していく百貨店や新聞社、電鉄の戦略、さらにはそれらに媒介されたランカイ屋の台頭という演出側の変化が結びついたなかで起きたp177

*2:フーコーの<権力>とは「無数の力関係であり、それらが行使される領域に内在的」であるような作用の総体である。それは「あらゆる瞬間に、あらゆる地点で、というかむしろ、一つの点から他の点への関係のあるところならどこにでも発生する」のであり、結局のところ「特定の社会において、錯覚した戦略的状況に与えられる名称なのである。」(p266)

*3:博覧会もまた、微視的な権力が作動し、主体を構制していく場としてあるとするならば、最終的に問われなければならないのは、博覧会と言う場が、その言説-空間的な構成において、そこにい集した人々の世界にかかわる仕方をどう構造化していったのかということである。つまり、博覧会が、その構成において作動させていく権力の微分的な作用こそが問われなければならない。(p266)