J・J・ルソー 本田喜代治・平岡昇 訳『人間不平等起原論』、岩波文庫(1755=1933、1972)


人間不平等起原論 (岩波文庫)

人間不平等起原論 (岩波文庫)


第一部について、


■自然状態の人々について、または自然人

それほど活発でない情念と非常に有効な抑制力(憐み?)とをそなえていた当時の人々は、邪悪というよりはむしろ野生的であり、他人に害を与えたい気になるよりは、他人から加えられそうな害から身を守ることによけいに気を使っていたので、ひどく危険ないざこざに引き込まれるおそれはなかった。彼らは相互に交渉も無く、従って、虚栄心も、敬意も評価も、軽蔑も知らなかった。
(p.75)

→つまりは、社会化された人々(近代人)は活発な情念を持ち、「憐み」を無くしてしまったために荒廃している。不平等も紛争も生じる。


■原始状態の仮定

森の中をさまよい、器用さも無く、言語も無く、住居も無く、戦争も同盟も無く、少しも同胞を必要ともしないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用をたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。彼は自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして彼の知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。偶然なにかの発見をしたとしても、彼は自分の子供さえ覚えていなかったぐらいだから、その発見を人に伝えることは、なおさらできなかった。技術は発明者とともに滅びるのがつねであった、教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重なっていった。そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。
(p.80)

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■社会状態:差異と不平等

ところで、いま社会状態のさまざまな階級を支配している、教育と生活様式のおどろくべき多様性を、みんなが同じ食物を食べ、同じように生活し、性格に同じことをしている動物や未開人の生活の単純さと一様性とに比較するならば、人と人の差異が、自然の状態においては社会の状態よりもいかに少ないものであるか、また自然の不平等が人類においては制度の不平等によっていかに増大せざるをえないかが理解されるであろう。
(p.81)

第二部への課題
●不平等の起原と進歩とを人間精神の連続的な発展のなかで示すこと。
●人間の種をそこなうことによって理性を完成し、人間を社交的にすることによって邪悪な存在にし、ついにはるか遠方の起点から人間と世界とを現在われわれの見るような地点にまで連れてくることのできたさまざまな偶然を考察し、結びつけること。