香内三郎・山本武利ほか(1987)『現代メディア論』新曜社



メディア論の教科書です。2冊目。



■テレビ

テレビの受け手は活字メディアとちがって、ラジオと同様にリテラシー(読み書き能力)を基本的に必要としないため、あらゆる階層に浸透しやすいメディアである。
(p.205)

■日常の「メディア性」、メディアの論理

化粧、踊り、儀式、小説、劇場、クルマ、街並みなど、身の回りのありふれた情景のひとつひとつが、文化的・歴史的に一定の意味を蓄積し、なんらかのメッセージを発信して、人々の認識や交わりをカテゴライズしている。このことを、日常の「メディア性」とよぼう。ここでいう「メディア」、広義の「メディア」とは、世界の感じ方、捉え方、考え方や、他の人々との関係形成の仕方を、触媒的に規定するひとつの文化的装置のことだ。・・・人は、メディアが要求する文法に従って(たとえば、あいさつ、礼儀作法、エチケット、そして言語)、知識や考え方や感情の伝達を、あるいは、他の人々との相互作用を営んでいる。・・・こうした、思考と社会的相互作用の自明で支配的「方法」、いいかえれば、日常に浸透した「メディアの『論理』」がここでの問題だ。(pp.248-249)


■漫画の変遷
非日常→日常(リアリティ)へ
(p.275-)
→少年誌はまた非日常性へ行っているような気がする。



■パラドキシカルな自己-他者関係?

対話性を含まない「ダベリ」、ファッションとしてのスポーツ、さらにはロック・コンサートの「ノリ」と同様のレヴェルで、一方には感性的に個体空間を形成しつつ、他方では社会的カテゴリーのなかへと自己表出する。「私」的装いが、集合的に表出されるのだ。(p.278)

→D・リースマンの「他人志向型」のパーソナリティ
 ・・・メディアとの関わりにおいてあらわれる、「私」性(「自主性」)と「集団所属性(準拠性)」、あるいは
    対他関係の問題。