酒井隆史「トーキョー内戦」


酒井隆史「トーキョー内戦」『現代思想』Vol28-11(2000.10)



■暴力の否定による暴力の再召喚

他者への無感覚が他者への暴力となってあらわれる・・・「暴力の公共性への引き戻し」とでも
呼びうる衝動がみてとれるのではないだろうか。つまり暴力はただ他者を抹殺するものではなく、
コミュニケーションや交通の延長上、あるいはコミュニケーションそのものとしてあらわれると
いう認識。むしろ暴力を否定的なもの見なして否認するところには最大の暴力しかあらわれない
。・・・最悪の暴力は「予防対抗暴力」としてあらわれる。暴力を予知しそれをあらかじめ根絶
する、として自らを正当化する暴力である。あらゆる摩擦、紛争を予知し根絶したい、という衝
動は、「他者」への恐怖(尊厳)としてあらわれ、そこにポリスの勢力の拡張が結びつく。・・・
だから暴力を汚れたものとして退けることでも、あるいは暴力を革命とか国家とかの目的に奉仕
する否定的な契機として位置づけるのではなく−そのような暴力はテロルである−、人と人、あ
るいは動物、モノとを結びつける構成的力として呼びもどすことが問題なのだ。
(p.110)


無感覚→暴力へ
コミュニケーション暴力
「予防対抗暴力」



構成的力としての暴力
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