佐藤卓巳(1998)『現代メディア史』岩波書店
- 作者: 佐藤卓己
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1998/09/28
- メディア: 単行本
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メディアの歴史の教科書です。
■テレビ-全体的社会体験のメディア
できる限り大量な視聴者のために「世界」を判りやすく構成するためテレビの情報は単純なパターンに織り込まれて伝えられる。そのため、テレビ体験は社会的経験の複雑性を減少させる。流動化、細分化、分節化が進むシステム社会では、個人が社会の全体性を体験することは不可能である。しかし、テレビはそれがあたかも可能であるかのように思わせてくれる。こうした明快さを追求素すべく、テレビ報道は娯楽ラジオの様式を次々と取り入れていった。実際、大衆社会の政治は記者会見やイベントで見世物として演出され、はじめて「政治」的問題となる。テレビニュースは、「社会的構成物」であり、政治的事象の解釈枠を示しているにすぎないが、あらゆる手管で「現実性」を暗示するため、「構成物」という側面は視聴者に見落とされていることが多い。・・・テレビは強制することなく接触を通じて共感を引き出すシステム社会のメディアである。(p.201)
■情報エリートの孤独
メディアが提示する無数の選択肢を前にした個人は、選択そのものを放棄しない限り、自ら選択したサブカルチャーに高度の正当性を必要とするようになる。自分の選択の正当化のために、「智民」は「自分探し」に多大なエネルギーを注がねばならなくなろう。特殊化、専門家したサブカルチャーで自己実現をめざす「智民」は、いつも自己喪失の不安に直面している。個人を教会や親族や近隣共同体の規制から自由にした結果、個人的なアイデンティティ、すなわち行動の制御原理はもはや共同体によっては担われず、保護されることもなく、すべて個人の責任とる。・・・インターネット神話は、個人を「超人」化することで、はじめて成立しうると言えよう。むしろ、個人が背負い込むアイデンティティの重荷に耐えきれず、精神的に破綻する者も多数に及ぶだろう、その結果、誰もが国民文化と国民福祉に安住して、共通の歴史にアイデンティティを保護されていた国民国家の時代が、やがて懐かしく思い起こされる時が来るかもしれない。・・・アイデンティティの重きクビキ[車厄]に耐え得ぬ「智民」のサイバースペースに、「聖なる身体を持つと僭称する偽の<王=神>」が来臨しないとも限らない。
(p.233)
→選択肢の増加-自己喪失
→過去への回帰
■予言
我々は毎日、予言の大量消費を行い、予言に支配されている。この意味でも、情報化社会は「シュミレーション社会」なのである。(p.233)