檜垣立哉「生と権力の哲学」ちくま新書

生と権力の哲学 (ちくま新書)

生と権力の哲学 (ちくま新書)

【目次】
第1章 不可視の権力―生政治学とは何か
第2章 「真理」の系譜学―フーコーの課題
第3章 「人間」のつくられ方―『狂気の歴史』から『監獄の誕生』へ
第4章 セクシュアリティーと生権力―『性の歴史第一巻』
第5章 「外」の力と「法」の逆説―ドゥルーズアガンベン
第6章 帝国とマルチチュードネグリの挑戦




フーコーの「生権力」に対する問題を関連人物と共に整理した書籍。

フーコーは不可視で非対称的なテクノロジーのあり方を暴き立て、

身体への緻密な介入とその規律化によって効力を発揮する(p23)という

権力論を打ち立てた。

フーコーには規律訓練型権力、生政治学、牧人司祭型権力、統治性、自己への配慮

などがあるが特に生政治学を中心テーマとして扱う。

フーコーによれば権力は変化しているという。

1つは「超越」的権力*1であり、もう一方は生権力である。

特徴としては

「超越」的権力(p122-)
①「否定的な関係」に基ずく。
②「2項対立的」なもの。
③「禁忌」という手段。
④「検閲」の論理。
⑤装置の「統一性」
→これにより権力は、それに逆らうものを存在しないものと為すことにより
 その力を波及させていく。
生権力(p123-)
①権力は微細な空間の隅々にまで拡散
②多様な連鎖のなかに「内在」し、機能する。
③権力は「下から来る」もの。
④権力の発動は、非主観的でだれも権力の中心にいない。そして、
 誰も権力の「外部」には出られない。
→視線を張り巡らせ、言説を扇動し、制度を作り上げていくことにより
 機能する。

フーコーは「抵抗」として広く言えば「個人」というかたちで

具現化する「人間」から、われわれが抜け出すこととしてしか

イメージ化できない(p128)とする。

このようなフーコーの生政治学は後世の人々に影響を与えていく。

それは、ドゥルーズアガンベンであり、

「帝国」*2ネグリ、ハートなのである。

ネグりは生権力への抵抗の主体としてマルチチュードを主体と考えている。

ネグリ

グローバリゼーション的状況において新たな段階に入った、絶対的民主主義の実現にかけている。

「国家」という媒体装置も、「党」や「大メディア」という「代理」装置も有効性を

もたなくなり、そうした中間搾取体がすべて機能不全に陥った場合で現出してくる民衆の力に

かけている(p198)という。それがマルチチュードである。

ここには労働の変化も影響を与えている。

「かつての労働」(p227)
:時間−空間的な枠組みのもとに、まさに規律訓育的に組織化
 ↓
「現時点での労働」
:時間−空間的な枠組みを逸脱。
 情報や金融的なネットワークへの参加が、または情緒的で対人的な関係労働
 が大きな役割を占めている。

ここには問題*3もあるがフーコーの生権力への抵抗を引き続き議論している。

最後に

生政治に関連する<自己>論は倫理とともに描き出されるべきであるとし、

それは現代における生政治学における生と権力の原理性を考察した後に果たされるべき

課題であろうとしている。




マルチチュードがよくわからないけどそれを読む時間は・・・・・・。

なかなか厳しい。

*1:「王」や「法」が主体

*2:ポスト・フォーディズム的な(大工場における画一的大量生産に従事するのではない)労働が主流になってきた、ネットワーク的社会のなかで書き直される、理論的実践に向けての書物(p197)

*3:インターネットによる情報格差、移動不可の貧民、リベラルエリートや市場の原理による世界構成の寡占状態、労働者の古典的労働における大量存在などなど(p232)