大嶽秀夫『新左翼の遺産』東京大学出版会、2007


新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ

新左翼の遺産―ニューレフトからポストモダンへ


60年代安保(1960)-ポストモダン-現代市民運動(2002:WTO大会反対運動)の繋がり。


■1959年11月27日の第8次統一行動

そして、(ブントは)1959年11月27日の第8次統一行動として行われたデモで国会に突入した。それは、安保闘争において全学連が独自の勢力としてその姿を国民の前に初めて現した画期的事件となった。…各新聞も27日の「議会制を破壊する暴挙」につき全学連を厳しく非難した。しかしこの事件は、新聞の強い非難にもかかわらず、全学連が一躍脚光を浴びるきっかけとなった。ラジオや当時普及しつつあったテレビによる臨場感ある(客観的)報道はむろんおおきな影響を与えたが、新聞も写真入りで報道することによって、一般の学生や若者、さらに大人たちに強いインパクトを与えた。報道姿勢とは無関係にマスコミの報道が報道対象を有名にし、かつ評価を高めてしまった。一例である。(pp.69-71)

→この期間中、テレビでは、国会を取り巻く大群衆、デモ隊に襲い掛かる右翼、警官に殴られて血を流す人々、「声無き声の会」の穏やかな行進、街の小さな商店のストなどが放映された。仕事を終えて家に帰ってテレビを見ていたが、たまらなくなって飛び出してきたというデモ参加者が少なからずいた。(p.71)
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全学連への共感

…総評の主力である国労動労全逓などの東京の支部や総評東京地評などで全学連への共感が生まれたことである。…11・27以後は職場の中で国会に入った組合員はすばらしかったと活気づいたし、入らなかった組合員は、入ろうとしたのになぜ幹部はとめたかという声が圧倒的に出てきた。…「警職法以来、鬱積していた警察官に対する憎悪、権力に対する怒りに火をつけたのが11・27事件だった」と述べている。…この動きが伏流として存続し、翌年の6・4ゼネストと発展していくことになったのである。
(p.72)


■羽田闘争(1960、1・16)

次なる闘争日程として、…統一行動(第11次)が1960年1月16日に予定された。当初、羽田沿道での大量デモ動員を決めていた国民会議幹事会は、またしても戦略をダウンさせ、この阻止方針を否決した。…これに対し、60年1月3日、島成郎はブントの全国代表者会議を召集、現地羽田動員による岸訪米阻止闘争を単独でも行うとの「冒険主義戦術」を提起した。
(p.79)

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■批判

新聞はあ全学連の「暴力」に、「赤いカミナリ族」「角帽暴力団」など、最大限の形容で一斉に非難を浴びせた。そして、社会党、総評は、統一行動を乱すものとして安保共闘会議からの全学連排除を正式決定した。また革共同も、「一揆主義」「ブランキズム」などとの非難を浴びせた。
(p.81)


■1960、4・26

国民会議は4月26日の第15次統一行動において「国民一人一人が政治的自覚をもち、秩序ある請願行動をとる」との方針を決めた。…そして10万人以上が請願のため国会に向かった。しかし、清水幾太郎が批判したように、「旗も歌もプラカードもすてさせて、請願者を投降者の群のように仕立ててしまった」のである。ブント・全学連は、請願は政治的にはなんの意味も持たない「紙屑」に過ぎないと批判し、請願行動を「お焼香」であると揶揄した。
(pp.83-84)

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■新たなタイプの運動としての「市民運動」の登場

一般国民からも、全学連の過激な運動を評価する動きが出始める。・・・そこで、新たな(既成左翼による動員ではない)自発的な運動として「一人一人による請願」運動という形態が選択され、大衆的な広がりを持っていくことになるのである。…この(穏健ではあるが、広範な大衆を巻き込んだ)運動の誕生は、ブントの過激な運動の一つの成果であった。(pp.87-88)

強行採決(1960、5・19)

マスメディアは、今回は、圧倒的に岸内閣のやり方を批判する論陣を張った。これによって、安保改定反対運動は、(安保の是非はともかく)条約批准の手続きの強引さに関心が移行し、戦前を思わせる岸の強権的姿勢から議会政治を守れという運動に席を譲った。それにより大々的な大衆運動化が始まったのである。
(p.88)


国鉄スト(1960、6・4)

この「違法スト」に対してマスメディアは好意的で、利用者も激励した。…労働者と市民とは固い結束を見せ、国会周辺を埋め尽くした。
(p.91)


■ハガチー襲撃(1960、6月10日)

このデモの主体は、日共系の全学連反主流派であった。…マスコミは、今回はこの事件を激しく批判し、総評、社会党を動揺させた。
(p.92)


■1960、6・15

国民会議は、6月15日を統一行動日と設定した。…ブント指導部は国会構内に再突入し、無期限の座り込みをする方針を立てた。この15日はクワの柄を振りかざした右翼(「維新行動隊」)による新劇人、キリスト教会議の「静かな」デモ隊に対する突然の襲撃に始まって、繰り返し起った全学連主流派と警察隊の衝突、そして警官隊による全く無防備な(多くの老教授を含む)教授団への無差別な襲撃と流血の惨事が続いた。この中で樺美智子が死亡した。
(p.93)

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■マスコミの批判

日本の大新聞7社は6月17日、一斉に「暴力を排し、議会主義を守れ」との共同宣言を掲載した。…新聞はかつて5月19日の強行採決に際しては、各紙それぞれに「民主主義、議会主義を守れ」と政府に対してその責任を追及してきた、そのマスコミの政府批判に呼応する形でデモが行われ、それが広がると同時に、一部が過激化していたのである。市民がマスコミの豹変ぶりに憤慨したのも当然である。
(pp.94-95)


■大衆運動の消滅

警官隊の暴力に抗議して、全国でそれまで全くデモなど参加しなかった無数の人々がデモに加わった。しかし、ブントは、6月15日の闘争で消耗しつくしていた。その後19日の自然承認まで、戦略も立てられず、デモを繰り返したにすぎない。6月18日に設定された統一運動日には、総数50万の史上最大のデモが国会、首相官邸付近を取り巻いた。しかし、ブントは限界に来ていた。…小グループが官邸突入をはかるが大衆は動かなかった。…その後、この空前の大衆運動は、驚くほど急速に消滅していった。
(p.95)