糸圭 秀美『1968』ちくま新書(2006)

1968年 (ちくま新書)

1968年 (ちくま新書)


戦後左翼運動におけるターニングポイントを1986年とし、その変化を描いていく。


学生による左翼運動は、ナルシシズムナショナリズム的だったのだ。


ナショナリズムナルシシズム

議会制民主主義を守れというスローガンは、一国平和主義を守ることであり、きわめて「ナショナリズム」的=ナルシズム的なものとなるのも当然である。そして、その枠を破ろうとしたかに見えるブント=全学連も、自らが「全世界を獲得する」というナルシシズムにおいて、ナショナリズムの枠内にあった。(p.51)


自治会=全学連運動を否定した六八年

それは、「自治」を掲げる大学という「民主的」な機構が、実は、過剰なものを排除するときにのみ民主的であるということの暴露から始まったのである。・・・六〇年代後半当時、各大学の自治会は、おおむねセクトによって系列化されており、そのセクトから排除される部分の活動は制限されていた。これは、「全員加盟」というたてまえのもとに「全体」を僭称する、自治会民主主義なるものの狡猾な技法にほかならないだろう。・・・戦後民主主義批判の文脈のなかにおいて、日本の六八年は、1970年の「7・7華青闘告発」を直接の契機として、在日朝鮮・韓国人や在日中国人、さらには、障害者や被差別部落出身者等々、そして、いうまでもなく女性といった、無として排除されてきたマイノリティーを見出していくのである。(pp.86-87)


■共労党

共労党は、68年当時の日本の新左翼のなかでは、ジャーナリズムに執筆の場を持つ知識人たちが終結する、ほとんど唯一の政治党派であった。彼らの活動の場は、「朝日ジャーナル」(朝日新聞)、「展望」(筑摩書房)、「世界」といった有名メディアから、「現代の眼」などの総会屋系雑誌、新左翼総合雑誌「情況」、書評誌、大学新聞、無名のミニコミなど広範なものだった。政治党派としての影響力は微弱でも、言論上でのそれには圧倒的なものがあった。(p.128)


■運動の論理

ところが、日本の全共闘のみならず、世界的にも拡大していった「68年」の学生革命とは、その核心においては、市民社会における教育(規律/訓練)へのサボタージュとして現出したものであった。なぜなら、市民社会の有力な雛形であり細胞である学校の教育は、それがいかに「良きもの」にみえようとも、それ自体として、国家的「統治」に奉仕するものだからである。それゆえ、日本の全共闘の学生は、戦後民主主義市民運動の理論的参照点であった丸山真男やその門下の大学人たちを、あれほど嫌悪したのである。それは、丸山の理論が規律/訓練型社会のモデルとしての大学を肯定し、そのことによって国家「統治」に奉仕する存在だということに、あまりに無自覚な、「東京帝国主義大学」の教員だ、ということにほかならない。
(pp.137-138)


新左翼運動とマイノリティーの問題化

60年代の安保ブント以来、日本の新左翼は、ソ連共産党(あるいは、中国共産党)に代わる、「歴史」の(つまり、世界革命の)最前線であり「主体」であることを自任してきたはずであった。・・・華青闘告発は、そのようなナルシズムを完膚なきまでに打ち砕いてしまったのである。それに代わって多種多様なマイノリティーあるいはサンバルタンと呼ぶべき、不可視だった存在が「歴史」の「主体」として浮上してきた。日本という狭い領域に限っても、「在日」中国人・台湾人、「在日」韓国・朝鮮人は言うに及ばず、アイヌ琉球人、被差別部落民、障害者、性的マイノリティー等等、そして何よりも女性が、それである。彼ら/彼女らが、7・7を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきたのだった。・・・もちろん、これまでの本書の記述からも明らかなように、全共闘を組織した学生も、自治会というマジョリティーに包摂されえない存在という意味で、マイノリティーであった。そのような意味で、68年の学生革命はマイノリティーを問題化する契機を、あらかじめ内包していたとはいえる。(p.193)

●声なき声の運動・・・ベ兵連(60年安保の6月4日)、小林トミ
           「誰でも入れる声なき声の会」→「市民」を可視化
           (p.88)


●70年以降
 ・・・新左翼のマイノリティー運動→現在:政権担当者による受動的な採用
                     ――フェミニズム運動、エコロジー