保阪正康『六十年安保闘争』講談社現代新書


保阪正康『六十年安保闘争講談社現代新書(1986,5)




あの頃の学生(青年)運動。


警職法反対→安保改定反対へ

意識は≪民主主義+安保改定≫と≪安保改定≫二つの次元に分かれていたとする。

知識人と言われる人々が影響力をもっていた時代でもあった。



■行動する学生

ところが、全学連主流派は、状況を常に切り開くためには突出した行動が必要であり、それが労働者階級の決起を促す”革命状況”に転換することを狙っていた。両者の間には水と油の関係しかなかった。全学連主流派は、その意味では純粋なはねかえりであり、「バッタみたいにはねかえればいいというものではない。われわれは生活を賭けて戦っている」という労働者の指揮には、常に負い目をもたなければならなかった。・・・確かに、全学連主流派は、当人たちの意識とは別に、社会的には”赤いカミナリ族”といった”太陽族”の変型版のように見られていたともいえた。
(p.64)


■60年と70年の違い

たしかに戦争終結直後のデモやストの規模も大きかったが、飢えに苦しむ大衆にとっては、政治的な目標よりもまず生活のほうが先決であった。いまにして思えば、1970年前後の全共闘運動も社会に一定のエネルギーを見せ付けたことになるだろうが、しかしこのときの運動は大衆に根付いてはいなかった。あくまで知識層とその予備軍の”反乱”にすぎなかった。「60年安保」というときの5月20日以後の運動のエネルギーは小学生や中学生にまで何がしかの影響を与えたし、社会生活から身を退いた老人たちも岸首相への憎しみをかきたてた。
(p.128)

■学生たちへの支援

学生たちが、重軽傷を負っている学生への治療費を得るために、駅や街頭に立つと、たちまちの内にカンパ袋が硬貨で埋まっていった。京都でも、東京に応援に行く学生への募金はすぐに集まった。それも千円札を投げ入れるサラリーマンが多かったのである。東京では、学生のカンパ袋に会社員が輪になって先を競い、自らの生活費を投げ込むほどであった。
(p.203)


■1つの結論:擬制の民主主義

吉田茂が昭和26年9月8日に、ひとりで調印した安保条約は、ほぼ十年という期間を経て新しく変わった。岸首相個人にとっては、最大の政治的功績といえるだろうが、条約の意味するものよりも、この条約の手続きをめぐってふきだした国民の反発は、結果的に戦後民主主義の内容そのものを改めて問うかたちになった。擬制の民主主義というものを、岸だけでなく、国民会議に象徴される反対運動の側も見せ付けた。学生たちが、その擬制に気づいたという点では、岸もまた別な功績をのこしたといえた。
(p.216)


「安保批判の会」・・・清水幾多郎
竹内好
日比谷公園