『支配の社会学Ⅰ』20【官僚制化の諸前提と諸随伴現象(p.73-)の続き】


「没主観性」と「専門性」とは一般的・抽象的規範の支配と必ずしも
同じことではない。

――正に本来の行政活動の領域においては、すなわち法創造〔立法〕
  および法発見〔裁判〕の領域に属さない一切の国家的活動につい
  ては、個性的なるものの自由と支配とが要求されるのが常であり
  、これに対して一般的規範は、〔行政〕官僚の活動に対する制約
  として、主として消極的な役割を果すにすぎない。
――決定的な点

この「自由な」創造力をもつ行政(ときとしては裁判も)は、前官僚
制的諸形態の考察に当って見るであろうような、自由な〔勝手気まま
な〕恣意や恩寵・個人的動機による恩恵や評価の王国を形成するもの
ではないはずであり、むしろ、「没主観的」目的の支配とこの目的に
対する合理的な考量と献身とが、常に行動の規範として存在している
、ということである。(p.98)

  ――真に官僚制的な行政の一切の行為の背後には、原理的に云っ
    て、合理的に論議しうるような「理由」の体系‐すなわち、
    規範への包摂あるいは目的と手段との考量のいずれか‐が存
    在している。



「民主制的な」潮流‐「支配」の極小化を目指す潮流という意味‐は
必然的に分裂的たらざるをえない。

――「権利の平等」と恣意に対する権利の保障の要求
  →行政の形式的・合理的な「没主観的」を要求
――「エートス」(個々の問題について大衆を支配するとき)
  →実質的「正義」への要求を伴って、官僚制的行政の形式主義
   「没主観性」と不可避に衝突
   →合理的に要求されたものを感情的に非難する。


無産者大衆
――「ブルジョア的」利害が要求するような形式的な「権利の平等」
  や「計算可能な」法発見や行政は、何の役にも立たない。
――法や行政は有産者との間の経済的・社会的生活チャンスの均衡化
  に奉仕すべきもの。
  ←このような営みは内容的に「倫理的な」、非形式的な(「カー
   ディ的」)性格をとる場合に限られる。


人民裁判」、「世論」は司法や行政の合理的な運行を妨げる。
――「世論」=大衆民主制の諸条件の下においては、非合理的な「感
  情」から生れた・普通は政党指導者や新聞によって演出されたま
  たは操縦された・共同社会行為