小笠原弘親、小野紀明、藤原保信(1987)『政治思想史』有斐閣
- 作者: 小笠原弘親,藤原保信,小野紀明
- 出版社/メーカー: 有斐閣
- 発売日: 1987/09/01
- メディア: 単行本
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秩序の創設はやっぱり大切ね。
あと、古代ギリシャのポリスでの政治は憧れを描かせるものなのだろうかな。
■ルソーのポリスの政治への憧れ、公共性
ルソーが理想的な人間像として提出した市民とは、古代ギリシャのポリスの成員を意味している。それらが
有徳であったゆえんは、かれらのもとでは個人と社会とが分裂して対立することなく、かれらがたがいに自
己の利益と欲望のために他者を欺くことがなかった点にある。つまり、そこでは「外面の態度がつねに心情
の反映」だったのである。この意味で有徳であることを忘れて偽善的存在と化したとき、市民はたんなるブ
ルジョアへと変身する。(p.192)
→アレントとの共通性。ポリスへの憧れ。
■ルソーの自然状態、自然→社会へ
自然状態をいわば人間が他者を認識する以前の状態として設定したルソーの意図は、そもそも人間が社会を
形成することによってその本性〔自然〕にいかなる変化が生ずるか、を根底から問い直そうとする点にあっ
た。自然状態のもとでの自然人と社会の中で生きる人間とを決定的に分かつ規準は外界から切り離された内
面において抽象的に思考する能力である理性の有無にある。(p.193)
■ルソーの自己と他者
人間は、他者と依存関係を結ぶことによって自己と他者とを比較することを学び、そこから自尊心が芽生え
、物質的生産手段の進歩にも追いつかないほどの絶え間ない欲望の増大にさいなまれはじめる。・・・「自
然に反した状態」である理性の行使を通して人間は堕落してきたのであるが、それは人間のたどるべき必然
的な過程でもあった。なぜならば、人間には「環境のたすけ」を借りてつぎつぎに自己の能力を発展させ、
自己を完成させていく能力(自己完成能力)がそなわっており、じつはそれこそが人間を他の被造物から区別
しているからである。(p.195)
→
社会の形成→自己-他者関係の成立、比較→自尊心、欲望の増大→理性(自然に反した状態)の行使、堕落
■人間自身へ
たしかに、人間は理性を濫用することによって堕落した。しかし、このことは、人間を苦しめる悪の原因が
人間自身にあることを意味している。それゆえに、人間はまさにこの同じ理性を用いて「神の意志がつくっ
たもの」と「人間の技術がつくったと称するもの」とを区別して、悪を根絶することができるはずである。
そのとき、人間は真に人間的な存在、自覚的に回復された第二の自然としての道徳的存在となるであろう。
(p.195)
→人間理性へ、ルソーの計画主義的契機
ところで、こうした合理主義、非歴史性、主観性によって特徴づけられる自然科学が、実践の営みとしての
政治、そして実践の学としての倫理学=政治学と相容れないことは、容易に理解できよう。政治とは人間的
なことがらにかんして複数の可能性のなかから状況に応じて思慮にもとづきより望ましいものを選択してい
く営みであり、倫理学=政治学とは、その対象がこうした選択をする行為自身であり、しょせんは蓋然的知
識しか提供しえない学問だからである。つまり政治は理性と感性の協働によって認識しあう歴史的存在とし
ての人間が相互に交流する場に成立するものであり、自己と他者を媒介することによって共同体を存在させ
る役割を果たしているのである。(p.211)
→近代批判、公共性の政治(バーク-アレント)
■保守主義的人間観
人間は、共同体から屹立した超越的存在ではなく、他者との交流を通して個としての存在を獲得していく、
それゆえに根底においてつねに他者と結びついている本質的に共同体的な存在なのである。(p.213)
■ウェーバー、合理化
合理化の過程とは、人々の判断基準、行為規準としての価値合理性が目的合理性に置きかえられていく過程
でもある。そしてそれゆえにまた、合理化の過程とは、世界の有機的連関が破壊され、世界から価値が剥奪
されていき、意味が喪失していく過程でもある。(p.291)
■官僚制へ
価値への信仰にもつづく人間と人間との人格的結合は破壊され、物を媒介とする即物的な関係、それゆえに
また合理的な計算可能な関係へと置きかえられていく。ウェーバーによれば、そのひとつの極致が官僚制で
あり、それはあらゆる組織に進展する。(pp.291-292)